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カメラの日本史:黒船来航から幕末の志士、戦争の記憶まで。日本人は何を撮ってきたのか

カメラの日本史:黒船来航から幕末の志士、戦争の記憶まで。日本人は何を撮ってきたのか

日本に初めてカメラがやってきたのはいつでしょうか?チョンマゲを結った侍たちが、初めて自分自身の姿を「鏡」以外で目にしたとき、彼らは何を思ったのでしょうか。「魂を抜かれる」と恐れられた写真機は、やがて幕末の動乱を記録する重要なツールとなり、戦争の記憶を留め、戦後の復興を支える産業へと成長しました。

この記事では、世界でも有数のカメラ大国となった日本国内の写真史を解説します。

第1章:黒船よりも早く。カメラの伝来

写真術がフランスで発明されたのは1839年ですが、驚くべきことに、そのわずか数年後には鎖国下の日本に伝わっていました。

長崎・オランダ船による輸入

1848年(嘉永元年)、長崎のオランダ船によって、日本初となるカメラ機材一式が持ち込まれました。この時伝わったのは、1839年にフランスでルイ・ダゲールが公式発表した「ダゲレオタイプ(銀板写真)」です。当時のカメラは「写真機」と呼ばれ、非常に高価で貴重な科学機器として扱われました。

殿様たちの実験室

最初にカメラを手にしたのは、西洋の科学技術に強い関心を持っていた各地の大名たちでした。特に薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の情熱は凄まじく、家臣に命じて写真の研究(蘭学)を行わせました。1857年(安政4年)に撮影された斉彬の肖像写真は、「日本最古級の自画像」として知られています。

島津斉彬の自画像(1857年)

第2章:幕末の志士を撮った技術

坂本龍馬、土方歳三、徳川慶喜―― 私たちが歴史の教科書で見る彼らの姿は、どのような技術で撮られていたのでしょうか。

上野彦馬が撮影した坂本龍馬(1866年)

湿板写真の普及

幕末から明治初期にかけて主流となったのは、ダゲレオタイプではなく、ガラス板を使う「湿板(しっぱん)写真」でした。特に、ガラスの裏に黒い布や漆を塗ってポジ像に見せる「アンブロタイプ」という技法が流行しました。

アンブロタイプでは、撮影直前にガラス板に薬剤を塗り、濡れているうちに撮って現像しなければならないため、写真師(カメラマン)は大変な技術を要しました。また、天候(明るさ)にもよりますが、数秒〜数十秒じっとしている必要がありました。龍馬が台に寄りかかっているのは、体を固定してブレを防ぐためでもあります。

最初期の日本人写真師たち

  • 上野彦馬(うえのひこま): 長崎で日本初の営業写真館を開設。坂本龍馬や高杉晋作など多くの志士を撮影しました。
  • 下岡蓮杖(しもおかれんじょう): 横浜で外国人相手に写真館を開き、日本の風俗や風景を記録しました。

第3章:文明開化と「名刺判写真」の流行

明治時代に入ると、写真は一部の特権階級のものから、少しずつ一般の人々へと広がりを見せます。

名刺判(カルト・ド・ヴィジット)ブーム

明治中期、フランスから伝わった「名刺判写真(Carte de visite)」が大流行しました。これは名刺サイズの台紙に写真を貼り付けたもので、従来のガラス板写真よりも安価で大量生産が可能でした。人々は自分の写真を撮って友人と交換したり、「見合い写真」として利用したり、皇族や歌舞伎役者のブロマイド(プロマイド)を集めたりするようになりました。

鶏卵紙(アルビュメン・プリント)

この時期のプリントには、紙に卵の白身(アルブミン)と硝酸銀を塗った「鶏卵紙」が使われました。セピア色の独特な光沢があり、明治時代の古写真は多くがこのタイプです。

アルビュメン・プリント技法による、開化期の東京・常盤橋の風景。卵白の独特な光沢感が特徴

第4章:戦争とカメラ、そして「銃後の記録」

昭和に入ると、カメラは戦争の道具としての側面を強めていきます。

出征兵士と写真

日中戦争から太平洋戦争にかけて、出征する兵士の記念写真を撮ることが一般的になりました。生きて帰れないかもしれない覚悟の中で、家族と撮る一枚は非常に重い意味を持っていました。また、戦地に向かう兵士の中には、国産の小型カメラや、ライカなどを隠し持って行く者もおり、戦場のリアルな実情を個人のアルバムとして残しました。

報道とプロパガンダ

政府や軍部は、写真を「戦意高揚(プロパガンダ)」のために利用しました。名取洋之助らが設立した「日本工房」は、対外宣伝グラフ誌『NIPPON』を発行し、優れたデザインと写真で日本の国力を世界にアピールしようとしました。一方で、土門拳や木村伊兵衛といった写真家たちも、それぞれの立場で激動の時代を切り取りました。

第5章:戦後の復興と「カメラ大国」へ

焼け野原からの復興期、日本人はカメラ作りにおいて世界一を目指しました。

二眼レフブームと「Riccoflex」

1950年代、リコーが発売した「リコーフレックス」は、当時の価格で安価かつ高性能だったため爆発的なヒットとなり、日本中に「二眼レフブーム」を巻き起こしました。この頃、庶民にとって写真は「ハレの日(特別な日)」の贅沢な楽しみでした。

Ricohflex III

報道写真家たちの活躍

ベトナム戦争(1960-70年代)では、沢田教一(『安全への逃避』)や酒井淑夫といった日本人カメラマンがピュリッツァー賞を受賞し、日本の報道写真のレベルの高さを世界に知らしめました。彼らが愛用したニコンやキヤノンのカメラは、その信頼性から世界中のプロの標準機材となっていきました。

まとめ:写真館からスマホへ

江戸時代、海を渡ってきた「写真機」は、明治の写真館ブーム、昭和のフィルムカメラ全盛期を経て、今や誰もがポケットに入れて持ち歩く「スマートフォン」となりました。しかし、「大切な瞬間を残したい」という日本人の心は、チョンマゲの侍たちがレンズを見つめたあの日から、何一つ変わっていないのかもしれません。

補足情報:歴史的カメラ用語解説

記事内で触れた専門用語の簡単な解説です。

  • ダゲレオタイプ(銀板写真): 銀メッキした銅板に直接像を焼き付ける方式。世界に一枚しか作れない。
  • 湿板(しっぱん)写真: ガラス板に薬剤を塗り、乾く前に現像する方式。ネガポジ法により複製が可能になった。
  • アンブロタイプ: 湿板の一種で、薄いネガガラスの裏を黒くしてポジ像に見せるもの。
  • 鶏卵紙(けいらんし): 卵白を使った印画紙。明治時代の写真の主流。

写真出典:

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この記事を書いた人

1987年広島生まれ。

プロカメラマンマッチングサービス「TOTTA」や写真撮影・動画撮影サービス「deltaphoto」を手掛けるカメラマン。キヤノンユーザ。ビジネス撮影で日本全国出張撮影しています。

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